仮説
先日この本を読んだ。
読んでパッと頭に浮かんだことを「仮説」もしくは「妄想」として書きたいと思う。
詳しい内容は割愛しますが、中々考えさせられる内容でした。
この本によると神には他者という存在はなく「一なる者」のために、他者を認識することがない。
そこで自分の一部を分かち、我々という個々の存在を創られた。
我々は神の一部であり、神そのものということになる。
ではなぜ人は強かったり弱かったり、頭が良かったり悪かったり、格好良かったり悪かったり、優しかったり意地悪だったりなど人によって違いがあるのだろうか?
皆等しく素晴らしい存在のはずなのに。
本当はあらゆる可能性があるのに、この地球では皆それぞれ「役を演じている」のかもしれない。
皆それぞれに違う立場で、違う個性で、違う生き方の中で様々な経験をして、生まてくる様々な感情なり思いを神は見ているのだろうか。
よく悲惨で目もそむくけたくなる事があった時「神も仏もあるものか」という言葉を見聞きするが、神はそれを見ることが目的とすれば何ら不思議なことでもない。
私達の本質は素晴らしい存在のはずだが 「役を演じる」という現象としてこの地球を生きているのだとすれば。
人を感動させたり落胆させたり、喜ばせたり悲しませたり、皆それぞれの役を演じて人に様々な経験や感情をもたらしているとすれば。
皆が同じ事をしていたら何も生まれるはずもなく、
それぞれに役を演じ、生みだすことが各々の役割ならばどんな自分であれ生きることにこそ意味が見い出だせるというものだ。
その生まれるものを神は欲しているのならば我々は皆神の為になっているというものだが。
その時々に発露した自分の信念体系や思いを「知っているか否か」「認識できているか否か」が善悪の基準なのかもしれない。
もしそうならば、「頭が良い、見た目が良い、人間性が良い」などと自惚れるのは大変な勘違いで、「頭が悪い、見た目が悪い、人間性が悪い」などと気を落とすのは大変な早合点ということになる。
あと本には恐れからくる信念体系をネガティブの一つと定義づけている。
無いことへの恐れ、お金が無い、必要なものが無い、人からの敬意が無い、等々恐れからの信念体系がパッと浮かび自らの行動の動機となっていることがあるようだ。
ということならば、やはり自ら発露する信念体系なり考えを自分で見定めることは生きる上で必要不可欠なのだろう。
これは極端な、おそらく正しくない仮説ですが、本自体はとても興味深いことが多く書かれており一読の価値はあると思います。